予感 「画学生の夢」 Ⅲ
よく見るとそれらの石群は人の形をしていた。
病院に近づくにつれ公園などによくあるギリシャ、ローマ時代の石像のように
はっきりと彫られているのが解ってきた。
しかし、目や口は穴が開いていた。
石像群の穴の奥にある全ての目が僕を見ていた。
赤い口の穴が何か言っている。
「亦、一人やってきた。」「駄目だろう。」とか、「帰れないだろう。」と。
耳を塞ぎ、僕は病院に向かって走った。
その病院らしい建物の前に着いた時、白い服を着た医者と思われる人が中に入るよう促した。
医者の後から院内に入って行った。
病院の中と言うより動物園に近かった。
医者は「第一のこの部屋は、病気があまり進んでいない患者たちだ。」と言ってドアを開けた。
一瞬、耳を覆いたくなるような騒々しい部屋だった。
「芸術とは一体なんだ」
この言葉が聞き取れた。
船の上での結論の出ない会話が思いだされた。
僕は兄を目で探したが見つけることが出来なかった。
医者は「うるさい」と呟きながらドアを閉めた。
「次の部屋は、病気が大分進んだ患者達だ。」と言って、廊下を歩き始めた。
「病名は何と言うのですか。」僕は尋ねた。
医者の答えは優しく笑っただけだった。
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第二の部屋は、先の部屋より幾分静かであった。
その部屋は部屋というより檻に近かった。
そこは恰もミケランジェロの「最後の審判」のようだった。
ある男はギリシャ彫刻のポセイドンのように、左腕を水平に上げ、右手に槍を持った姿で走り回っていた。
よく見ると上半身は大理石になっていた。
ロダンの【考える人】のような格好をした者もいた。
彼の両足も石になっていた。
彼は「ギリシャ文明は最も栄えたのが紀元前5・6世紀と言われている。
今から2,500年程前だ。大昔のように思われているが、
20才で女性が子供を産んだとして150人縦に並べて見ろよ。
3,000年になる。そんなに昔ではないのだ。」と言った。
続けて「地球は壮年期から老年期に入っていると言われている。
つまり、生物に喩えると、細胞を作るのを止め細胞が死に向かっている時期と同じだ。
そして、蛆が湧き腐っていくのに似ている。地球の蛆は生物、特に人間なのだ。」と、
言ってる内に彼の頭部を除いて全身石になっていくのが解った。
すると医者は、「誰かクラウスを第3の病室へ移してくれ。」と大声で叫んだ。
傍にいたイギリス人のフィリップが「もう少し彼と話しをしたかった。
キリスト教のことなど、特にユダヤ人との関係だ。
キリストもユダヤ人だろう。彼等キリスト教徒が如何に好き勝手なことをしてきたことか。
ギリシャ・ローマ時代の彫刻の破壊には目に余る、ほとんどの首は落とされ、鼻は欠かされたのだ。」
と、独り言のように話していた。
兄はこの檻にもいなかった。
第3の病室はただの広場だった。
ポンペイの遺跡を見る思いがした。
そこは静かだった。
ほとんど全身が石になっている患者達で溢れていた。
ボッティチェッリの【ヴィーナスの誕生】宜しく、「あの人がヴィーナスに似ているとか
綺麗だとか言うものだからその気になっていたら、船に乗せられここに連れて来られたの」
と話しているクリスティーヌは顔と肩以外は白い大理石になっていた。
美術館の外で売っている土産物と同じように出来損ないだった。
教会の中にある清水盤を肩で担ぎ跪いている男を見た時、僕に似ていると思った。
両腕だけはまだ石にはなっていなかったが重さに耐えている両腕が震えていた。
足が山羊で角の生えたサテュルス、イチモツだけはまだ石になっていなかった。
その横でアフロディーテがサンダルで彼を笑いながら叩いていた。
しかし、どれもこれも見るに耐えない物ばかりだった。
ポンペイの逃げ惑う人達の悲壮なまでのあの鬼気迫るものはこれらには無かった。
比べ物にならなかった。
人間が作る物は到底、自然界の物には及ばないのだろうか。
「此処だ、此処だ」と微かではあるが、僕を呼ぶ声がした。
声の方をよく見ると、達磨のように座った兄がいた。
顔はまだ石にはなっていなかった。
僕は近づいて「どうしてこのような病気になったのですか。すぐ僕と一緒に帰りましょう。」と話すと
兄は「お前の来る所ではない。帰れ。」と言ったと同時に
口の周りから氷が張るようにカリッ、カリッと音をたてて石になっていった。
僕は泣きながら石になった兄を抱きかかえようとした。
しかし、兄はビクともしなかった。
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