予感 「画学生の夢」 Ⅰ
1969年3月のある朝5時頃。
けたたましい電話の音で起こされた僕は、兄の入院のことを知った。
病名は分からないらしい。
四国の南300キロほど離れた島の病院ということだった。
僕の好きだった兄は絵画の面で、良い影響を与えてくれた。
どのような病気なのだろうか。
すぐにでも逢いたいと思った。
アパートを飛び出し、パリの南の入り口、ダンフェール・ロシュロへ地下鉄に乗って行った。
高速道路への道でヒッチハイクをして、マルセイユまで行くつもりだった。
マルセイユから船で日本に帰国する。
それしか考えなかった。
車は簡単に止まってくれた。
リヨンまで3時間で行けた。
400キロはあるだろうか。日本では考えられない速さだ。
僕を乗せてくれたフランス人は、耕作機械のセールスをしているということだ。
近く日本の耕作機械にヨーロッパは負けるだろうと話していた。
そう云えば、去年ヒッチハイクでヨーロッパを回っていた時、
イギリスの学生が「これからは日本の造船にイギリスは苦難を強いられるだろう。人件費の安い日本に。」と
幾分皮肉を込めて言っていたのを思い出した。
リヨンからはスイス人がマルセイユまで乗せてくれた。
彼は5年前に日本へ行ったそうだ。
ヒッチハイクで日本各地を周り、楽しい思い出をたくさん作ることが出来たと言った。
特に愉快だったのは、トラックの運転手が乗せてくれた時のことだったと話した。
まだ、日本ではヒッチハイクが馴染み薄かったのだろう。
運転手は彼を病気だと思ったのか行き先も聞かず病院に連れて行ったそうだ。
スイス人は笑いながら、懐かしんでいるようだった。
また、こうも話した。
日本人の優しさはヨーロッパ人の警戒しながらの親切とは比べものにならないほど純粋なものだ、と。
マルセイユに着いた時は昼過ぎだった。
ウォルテルと言う名の彼はマルセイユの港まで乗せてくれた。
僕はトラックの運転手に感謝しなければならないと思った。
1966年初めてヨーロッパに来たのが、このマルセイユだった。
その桟橋に着いた時、咸臨丸のような3本マストの帆船が目に入った。
中央の一番高いマストに日本の国旗が掲げられているのを見つけた。
帆船の側まで来ると、船からボザールのフレスコの教授が白髪に手をやりながら降りてきた。
教授は僕に近付きながら「君を待っていた。日本へ帰りたいのだろう?」と、言われた。
驚いて「そうです。どうしてそのことを知っているのですか?どうか乗せてください。」と答えた。
教授は手招きでついて来るよう促した。
僕は教授の後からタラップを登って行った。
操舵室に入りながら、教授は「君を日本に連れて帰るために待っていた。」と言われた。
そして、机の上に世界地図を広げ、日本迄の航路を指し示した。
その地図は今までに見たことのない世界地図だった。
エメラルドグリーンの海。
陸地は乳白色で表わされていた。
綺麗だと思った。
しかし、正確ではなく15,6世紀の地図のようでもあった。
北海道がまだシベリアと繋がっている。
四国は大雑把で、ただ、tosaと書いてあった。
四国の南の方に赤い小さな印がつけてあった。
教授はその赤い点を指しながら「ここへ行きたいのだろう?」と、話された。
「おそらくそこだと思います。」と答えた。
それから教授に教えられた13号室のキャビンに行った。
キャビンは個室だった。
ひと時経って夕食を知らせる鐘が鳴ったので
食堂へ行ってみると10数名の人たちがいた。
何れも見覚えのある人たちだった。
デッサン派と色彩派との違いを云々していたジャンポール。
「デッサン派は知的で思慮深いアポロ。色彩派は感情的で酔っ払いのバッカス。」と言い切るピエール。
ナイフとフォークでチーズ等をすぐに彫刻したがるイタリア人のセルジョ。
絵はほとんど描かず、赤いベレー帽を被り、長い柔らかい褐色のマフラーを身に纏い、
ファッション雑誌に出てくるようなクローデイもいた。
窓際にワインのビンを片手に陰鬱そうな顔をして僕を見ている、パリ在住の藤田ツグジもどきの某画伯。
ふと、僕はその時思った。
皆、病人で入院するためにこの船に乗っているのではないだろうか、と。
すぐに教授の所へ行き「僕は病気ではありません。看病しに行くだけです。」と言った。
教授は眉間に皺を寄せ、口元は優しさに満ちた笑みを浮かべながら、「解っている」と答えられた。
僕は食事を取らずキャビンに戻った。
涙が止めどもなく流れた。
自問自答した。
トンデュ先生が話されたことを思い出した。
「日本人は上手いが芸術性に乏しい。日本は独自の素晴らしい文化があるのに何故パリに来るのだろう」と。
僕はそれに答えたのを覚えている。
「明治維新、そして、第2次世界大戦で負けてしまった僕達の教育は
西洋文化一辺倒になり、日本の文化が古臭く思えるようになってしまった。
それに和服で車の運転は出来ず、畳の上に冷蔵庫は置けず、置けたとしても一時的に
置いただけという落ち着かない状態です。」
先生が「私のようなヨーロッパ人が日本画のような絵を描いてそれを君は素直に認めることが出来るか?
良き理解者であっても創造者にはなれないだろう。しかし、和洋折衷で新しいものが出来ないとも限らない。
せいぜい頑張り給え。」と話されたのを思い出していた。
また、モデルをデッサンした後の帰り道、ウインドーに映った日本人である僕を見た時のあの違和感。
それからはなるべくウインドーを見ないようにした自分が悲しかったこと等を思い出した。
何時の間にか泣き疲れて眠ってしまったようだ。
ドアをノックする音で目が覚めた僕は、3日も眠ってしまったことを知らされた。
空腹の為、ふらついた足で食堂に行った。
あいも変わらず芸術論が交わされていた。
「抽象画には国境がないから日本人は抽象画に走りたがるのだ。
西洋人はあくまでもギリシャ文明、ルネサンス等から培われたものだ。
日本には日本画という素晴らしいものがあるではないか。」と、誰かが言った。
中国人がそれに答えて「日本画のようなものは昔、我が国で沢山描かれている。
日本画家は何時も後ろめたい気持ちでいるのだろう。そのような顔つきをしてはいないか。
それなのにどうして彼等は威張っているんだ。普通の人より少し絵が描けるだけだろう。
大衆にも責任があると思う。まるで、江戸時代の年貢を納めに行く農民のようだ。
そういう私自身も西洋カブレだがね。」
サンドイッチを手にその場から逃げるように離れた。
甲板に出てみると満天の星空だった。
船は赤道近くを走っていたので、星座の位置が随分違っていた。
星を見ていると食堂での会話をひととき忘れることができた。
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