天使の翼


 

朝の陽りがまだ色を創らない頃、目を覚ました僕は久しぶりに散歩に出た。

オッシュ通りの並木道をブーローニュの森に向かって歩いていると、

3本前のマロニエの木の側で、白い服を着た10才位の女の子がこちらを見ていた。

女の子は僕に近づくなり「Est-ce que tu veux voler au ciel?(あなた空を飛びたいんでしょ?)」

と話しかけてきた。

僕は思わず「Oui(はい)」と答えた。

 

女の子は自分の背中の翼を外しながら僕の後ろに回り、背中に着けてくれた。

翼は荷物の入っていないリュックを背負った感触だった。

一生懸命飛ぼうと思って翼を動かしたけれど、案の定、体は一向に浮きそうになく、

腕だけをやたら動かしているだけ。

笑いながら彼女が言う。「翼は背中で動かすのよ。腕の力ではないわ。」

僕は背中に気持ちを集中させ、三角筋を動かしてみた。すると体が、ふっと浮いた。

「そお、そおよ。でも飛ぼうと思いすぎるとすぐに疲れてしまうわ。

自転車と同じよ。そんなに力はいらないのよ。」

少しして飛ぶコツが解ってきたような気がした。

「もう大丈夫よ。イカロスのようにあまり太陽には近づかないようにね。

あなたにはまだ無理よ。」と妙に大人っぽく彼女は言った。

その時、すでにマロニエの木の上の方で彼女に手を振っていた。

「ヴォージュ広場で待っているわ。夕日が沈むまでに返してね。」

 

僕はエトワールの上空目指して翼を思いっきり動かした。

「Je vole, Je vole.(飛んでる。僕は飛んでる。)」

大声を上げながら僕は有頂天だった。

エトワールの上空から下を見ると、その名の通り道が星の光のように延びているのが良く解る。

東の方が俄に明るくなり、パリの天窓が一斉に輝き始めた。

 

    
ange1

 

朝焼けが僕は好きだ。

レモンイエローを含んでいるからだろうか。

夕焼けは僕の気持ちを暗くしてしまう。

朝焼けを“バラ色の指をした女神(アウローラ)”と形容した昔のギリシャ人は素晴らしい詩人だ。

それに比べ僕の指は女神のそれとは程遠く、少し曲がっていた。

 

チュイルリー公園に向かってシャンゼリゼ通りの上空を飛んでいたが、

右に大きく旋回してエッフェル塔に向きを変えた。

もっと高度を上げなくてはならない。

明るいコバルトブルーを残した空に向かって飛ぶのは爽快だ。

パリの街をゆっくりと眺めようと思い、エッフェル塔の一番高い展望台に止まることにした。

案の定、天使の言った通り疲れ果ててしまった。

飛びながら風景を満喫するには早過ぎたのだ。

しかも、着地の仕方をあの可愛い天使に教えてもらっていなかった。

僕は急に心細くなった。

こうして宙に浮いていることさえ、あり得ないことだと思うと恐ろしかった。

ふと、大きな鳥が木に止まるところを思い出した。

そして、両足を前に突き出し、翼を一生懸命動かしながら鉄骨にしがみついた。

全く情けない恰好だ。

 

シャイヨー宮の方に向かって冷たい鉄骨に腰を掛けた。

朝が早いのだろう。

下のセーヌ河にバトー・ムーシュは見当たらない。

ミラボー橋、そして右方のモンマルトルの白く浮かんだサクレクール寺院を見た時、

初めてパリに来た頃を色々と想い出し、懐かしんだ。

 

しばらくして、東にあたるモンパルナスの方向に席を変えた。

パリにしては珍しい日の出だ。

モンパルナスには建設中の建物が見える。

完成するとエッフェル塔より高くなると言われているが、

今、丁度30階程出来ていると聞いていた。

一度近くから見たいと思っていたので行くことにした。

 

しかし、いざ飛び出そうとしたが、現実的な事柄を考え過ぎたせいか、

飛ぶことなど到底不可能な気がして、身体が震え出した。

ここまでどのように飛んで来たのかさえ、分からなくなってしまった。

目をつむり、今朝起きてからのことを思い出そうとした。

女の子に出会って、彼女は天使で、そして翼を貸して貰ったのだ。

可愛かった天使の顔が想い出せない。

ボッティチェッリの描いた天使、ラファエロの天使、ダヴィンチの、コレッジオの、いや全て違っている。

彫刻かも知れないと思い、もっと昔のギリシャ・ローマ時代に想いを馳せた。

やっとタナグラの人形の顔が浮かんだ。

 

ange2
 

 

モンパルナスの建設中のビルに行くのは止めにして、ルーブル美術館の方に向かった。

ベンチに降り立った時、鳩たちも寄って来た。

鳩を良く見ると、首を前・後にふると同時に足も左・右と動かしている。

機械仕掛けのように首と足が直結しているようだった。

その中の一羽が歩く度に前のめりになったりしている。不器用なのだろうか。

それとも足と首を同時に動かすということが分かったのかもしれない。

考えながら歩くものだからずっこけてしまったのだろう。

この時、天使が教えてくれたことがよみがえった。

飛ぼうと思っても飛べないこと。いや、理解してはいけないということが分かった。

 

少し経った頃、ベンチに座った僕を見て、日本人の友人が笑いながら近づいて

「仮装行列でもあるのか?」と聞いてきた。

天使に翼を貰ったことを話した。

友人が貸してくれないかと頼むので、天使に教わった通り教えた。

彼は分かったと言って尚早に飛び立ってしまった。

楽しそうに飛んでいる友人を見て、嫉妬している自分が情ないと思いながら、

天使との約束を口実に翼を返して貰った。

 

約束の時間までまだたっぷりある。

ポンヌフの橋桁の間をグライダーのように翼を動かさず飛んで楽しんだ。

そして、ノートルダムの鐘楼の近くにあるガーゴイユの側で一休みした。

 

eiffel

 

ヴォージュ広場へ着いた時、約束の時間を少し過ぎていた。

白い服の天使を探したが、見つからない。

すると、ギリシャ風の出で立ちをした若い女性が近づいてきた。

良く見ると10才位だった天使に良く似ている。

10時間くらいの間に7,8年も経っていたのだ。

「十分楽しみましたか?」彼女は僕に聞いてきた。

10才の天使がいつの間にか17,8才になっていた。

「はい。空を飛ぶのがこんなに楽しいとは想像以上でした。

もう少しの間、翼を貸していただけませんか?」

天使は笑いながら、「それは出来ないのです。

もしかしたらクリニャンクールの蚤の市場にあるかも知れませんよ。」と教えてくれた。

 

僕は歩いてクリニャンクールへ行った。

市場にはアンティークなもの、まがい物などありとあらゆるものが売られていた。

でも、翼はなかなか見つからない。

やっと翼のついた天使の彫刻を見つけたが、翼は既に傷んでいた。

それでも思い切って店主に「ちょっと翼を貸して下さい。」と頼んだ。

「買うならね。」店主は答えながら翼を彫像から外してくれた。

「買うかもしれない。」そう言いながら、僕は翼を背中に着け、飛び立つ仕草をした。

店主や周りに居た人達は僕を変人だと思ったようで、気の毒そうな表情をしている。

 

僕は飛べない自分に腹を立て泣き出してしまった。

翼を店主に返し、他の翼を探したけれど見つからない。

他の店の人たちも面白がって、鳩の羽根や孔雀の羽根などを持って来てくれたが、飛べる筈もなかった。

 

それから毎朝、僕はブーローニュの森への散歩が日課になった。

 

戻る

Masuya KYOMEN

 

 

 

 

 

 

当サイトに掲載している画像や文章の無断複写・転載は固くお断りいたします。